君の寄る辺になれたら
夜半。そろそろ寝るかとベッドの上でうつらうつらとしていた頃。静まり返った船の中でガラスが割れるような音がした。今は潜水中。水圧で窓が割れたかと慌てて上半身を起こしたがそんな気配はない。ならば何が割れたというのか。
部屋を出ると数人のクルーが女部屋がある方に視線をやっていた。視線の先ではイッカクが困ったような、焦ったような表情でおれを見ていた。
「――あいつか」
「船長……」
イッカクや他のクルーの視線に促され、普段は一応の遠慮の意味も込めて立ち入らない女部屋へ足を踏み入れる。部屋の中は暗かったが、廊下から漏れる明かりでかろうじて中は見渡せる。割れたガラスの正体は時計だった。丸い文字盤が転がり、針がポキリと折れてしまっている。散らばったガラスを踏まないよう注意しながら暗い室内を奥に向かって歩いた。
「せんちょ……」
奥のベッドの上で息を切らし、虚ろな目で震えるのは予想通りの人物。というより船に女クルーは二人しかいないため、イッカクを除けば女部屋にいる以上必然的に一人に絞られるのだが、それを差し引いてもこいつだろうと当たりは付いていた。他のクルーも同様で、だからこそ皆真っ先に女部屋を気にしていたのだろう。
なまえ自身は普段は明るいやつだが時折どうしようもない悪夢にうなされるらしく夜中に物を投げて壊すのはこれが初めてではなかった。
初めこそあまりの変わりようにどうしたものかとイッカクがオロオロしながらおれに泣きついてきたものだが幾度と繰り返されるうちに今ではある程度冷静に対処するまでになっていた。といってもイッカクが宥める役割をするのではなくおれが憔悴しきったなまえを宥め、眠るまで傍にいるのが常になっているのだが。
刺激しないようなるべくゆっくりとなまえが蹲るベッドに片膝を乗せ、正面から頭を引き寄せた。まつ毛に引っかかっていた雫がその反動で頬を濡らすのを親指で拭ってやれば小さくごめんなさいと謝る声が聞こえた。
後ろでは不寝番を除いたクルー全員が部屋の入口から様子を伺っていた。申し訳なさそうに身をすくめるなまえを宥めるのが先決かとおれが顎で退出を促すと心配して集まってきたクルーがイッカクの腕を引っ張ってそれぞれの部屋へ戻って行く。イッカクには悪いがこういう時は医務室で眠ってもらっている。無理にここからなまえを移動させるのも気が引けるし、暗闇の中破片を踏んで怪我をする可能性がある為こうなったら戻ってきて女部屋でいつも通り眠る方が危ない。潜水中の暗く蒸し暑ささえ感じる部屋の中息を荒らげるなまえを抱え直した。落ち着くまで背中をさすってやるのはこれが何度目だろうか。
船長船長! と左右に揺れるしっぽさえ見えそうな天真爛漫さは見る影もない。さする手を背中から頭に移動させた。時折髪を指に引っ掛けてくるくる弄ぶ。密着した部分から拡がる冷えきった体温がおれかなまえの心を反映しているようで落ち着かず、ごめんなさいとしつこく謝るなまえを抱く腕の力を強めた。
「横になるか」
震えが収まってきたタイミングで問いかけ、小さく頷いたのを確認し、なまえの頭に手を添えながらゆっくりとベッドに横たわらせる。いつの間に浮上したのか、月明かりがなまえの横顔を照らした。
「……イッカクは」
「今は医務室で寝てる」
「また悪いことしちゃった」
「気にしてねェよ。どうしても気に病むなら買い物でも付き合ってやれ」
話す元気が出てきたのに溜飲を下げ、寝ろと声をかける。なまえが不安げにおれのパーカーの袖を引っ張った。
「……船長は?」
「おれもここで寝る。心配しなくても離れたりしない」
おれの返答に安心した顔をするくせになおも謝るなまえにどうしたら迷惑でないと、心配することは何もないと伝えられるだろうか。答えが出そうにない自問自答を、なまえのこういう姿を見るたび繰り返す。いつか悪夢も全て取り払ってやれたら。
「船長、は」
「……なんだ」
「何かして欲しいこと、ある?」
それは、イッカクの買い物には付き合うからおれにも何かと考えての問いだろう。そう促したのはおれだ。頭では理解しても見返りなど求めてこうしている訳ではないと身勝手な居心地の悪さに眉を顰めた。
「船長」
……ああ、そう訴えなくても分かっている。なまえ自身、してもらって平気な面でいれるような奴ではないのだ。だったらおれはなまえの船長として、なまえを想うただ一人の男として自分の居心地の悪さには一旦目を瞑りなまえの要望に応えるべきだ。
「だったら、今度から食後はなまえの淹れた珈琲が飲みたい」
「私より上手い人がいるのに?」
「……なまえのがいい」
ふわりと笑うのは了承ととっていいだろう。いいかげん瞼を閉じさせようと目にかぶせた手になまえの手が重なった。その手をもう片方の手で抑え指を絡ませる。細いと思う指はおれの手に絡め取られて力を加えればあえなく折れてしまいそうだった。
しばらくの間手を握ったままにしてやると聞こえてくる寝息。瞼に置いた手のひらは少し濡れていた。
なまえを起こさないよう慎重に隣に寝転がる。ぎしっと軋む音がして思わず顔をのぞきこんだが起きる気配はなく胸をなでおろした。
どんな悪夢にうなされているか、知らない。なまえが言おうとしないからおれも聞かない。ただ船に乗ってすぐの頃からこうだった。悪夢にうなされる回数は着実に減っていて、それがここでの生活がなまえにとって心地よいものであることの証明な気がして溜飲を下げると同時にあと何度手を握って一緒に眠る日が訪れるのだろうと考えることがある。悪夢に魘されるのを口実に同じベッドで朝を迎えるのを女々しく思いつつもなまえの悪夢の原因が分からない以上安易に踏み込む勇気も無かった。
どうせ翌朝にはいつも通り、夜何事も無かったかのような顔で「寝ぼけてた」なんて下手な嘘をつく。平気も、大丈夫も聞き飽きたとは言ってないが、そんなにおれは頼りないかと偶に問い詰めたくなるのは仕方ないだろう。
その上怪我をするから片付けはおれがやると言っても聞かなくて押し問答を繰り返すうちに、その声を聞き付けて心配で集まってきたクルーと女部屋の掃除にまで発展するから結局話は流れてしまう。煩わしいと言えば煩わしいが、仲間と笑いながら手を動かす様に安心しているのもまた事実。
小さく身動ぎするなまえの肩を引き寄せ自分の腕の間に閉じ込めてみる。眠っている時に抱き寄せるのは初めてだった。今夜は抱きしめたまま眠ろうか。起きたらどんな反応をするか知らないが夜中に起こされて落ち着くまで付き合った対価と言えば文句もでないだろう。
緩やかに上下する体につられ、おれもまたゆっくり意識を手放した。
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